第4回 歯科医学歴史散歩
~江戸下町の医学教育ゆかりの地を巡る~
トップページへもどる

10:00秋葉原駅に集合し,歩いて浅草橋4丁目に来ました。

ここは,江戸幕府唯一の医学専門学校である『医学館』がありました。 説明板にもありますが,入学は一般にも開放されていたらしく, 江戸期後期から明治維新にかけて日本の医学に貢献したようです。

この説明板の背後にレンガが見えますので,さぞかし立派な跡地と思いきや, このようにマンションと道路の狭い空間に説明板が設置されているだけでした。
神田川にかかる美倉橋を渡り岩本町3丁目からすぐの道路わきに 『種痘所記念』の石碑がありました。
ここに伊藤玄朴ら蘭方医たちが種痘館を設立し,これが後に 東大医学部になったそうです。東大医学部の 沿革 にもこのことが書かれています。
この付近には,不忍池と同じくらいの大きさの『お玉が池』と呼ばれる 池があったらしい。現在は埋め立てられて何もありませんが, 池の跡を示す小さな祠がありました。
この祠近くのビルの壁面に,お玉が池種痘所跡を示す説明板が 埋め込まれていました。
東大の医学部もビル所有者からビルの一部をむしりとって 石碑をたてたのでしょうか。医学館跡地にしろ種痘所跡地にしろ, どうも歴史を偲ぶにはふさわしからぬ光景です。

このお玉が池周辺には,数多の学塾があったらしい。

千葉周作の剣道場玄武館もここにあった。気仙沼出身の千葉周作は,最初, 松戸の町道場で修行をしました。松戸駅近くのお寺には,その説明板もあります。 のちにお玉が池に道場を開き,ここで坂本竜馬なども修行しました。

この辺りから神田神保町にかけては学びの場所として有名で, 後に多くの大学が発祥し,現在でも大学や古本屋街があったりします。

お玉が池から南下すると日比谷線の小伝馬町駅にでます。その近くに 『大安楽寺』があります。ここは江戸時代に牢獄があったところです。

ここは安政6(1859)年,安政の大獄により捕えられた吉田松陰の終焉の地 としても有名です。斬刑のあと,遺骸は小塚原の回向院に埋葬されました。 小塚原の回向院は, 第2回歯科医学歴史散歩で訪れた場所でした。

文久3(1863)年正月に, 高杉晋作以下4名が埋葬されている松陰の遺骸を掘り起こし,世田谷区若林にある 毛利家別邸に改葬しました。現在の 松陰神社です。

道をはさんで『十思公園』があり, ここにも吉田松陰の説明板と石碑がありました。

さらに日比谷線に沿って南下し,人形町交差点にでました。 ここに『玄冶店(げんやだな)』の石碑があります。

江戸期の医師・岡本玄冶の拝領屋敷があったそうです。

都営浅草線東日本橋駅近くの 薬研堀不動院にやってきました。 ここは川崎大師別院なのだそうです。

不動院裏手にまわると,順天堂発祥の碑がありました。 天保9(1838)年に佐藤泰然という人が,この地に蘭方 医学塾をたて,これが後の 順天堂大学になりました。

薬研堀をあとにして両国橋を渡り,両国駅前で昼食をとって解散となりました。 今回は大学院生1名,教職員5名の参加でした。

トップページへもどる