第6回 歯科医学歴史散歩
~蘭学の聖地・佐倉を歩く~
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10:00京成佐倉駅に集合。あいにくの雨。 この旅では初めての雨かと思います。

まず歩いて県立佐倉高校まで来ました。佐倉藩の藩校として作られた という名門校です。この旅で後ほど出てくる堀田邸の堀田正倫(まさとも) の建築寄贈の記念館があります。 卒業生には長嶋茂雄がいます。

少し歩いて,佐倉順天堂記念館に来ました。

この病院は,佐藤泰然(たいぜん)が1843年に開設したものです。 ここで大いに弟子を育てたため,『西の長崎,東の佐倉』といわれるほど 蘭学の中心地として栄えたそうです。

佐倉藩では佐藤泰然が佐倉に移住する前から蘭学が受容されていたらしい。 ときの藩主・堀田正睦(まさよし)が西洋堀田とあだ名されるほど西洋に関心 の強い人だったらしい。実際,佐藤の移住前に佐倉藩では人体解剖が行われて いたそうだ。

この移住に先立つ1838年,佐藤泰然は薬研堀に蘭学塾を開き, 医学を教えていました。そこでの盛名により堀田に招かれての移住だった のかもしれません。 薬研堀不動院 第4回歯科医学歴史散歩で訪ねた場所です。

佐藤泰然の養子である佐藤尚中,実子である松本良順はともに長崎で ポンペについて医学を修めました。

江戸幕府が開いた種痘所を1861年に西洋医学所と改称し,松本良順はその 頭取となりました。

1863年,江戸幕府は西洋医学所を医学所と改称しました。さらに 1869年この医学所を明治新政府は大学東校とし,佐藤尚中を教授として 医学の教育をはじめました。

このあたりの話は, 第5回歯科医学歴史散歩でもふれました。

ところが,1871年明治政府は,蘭学(オランダ)はすべてドイツ語のからの 翻訳にすぎないとして,ドイツ医学を選択しました。 そこで佐藤尚中は大学東校を退職し,1873年順天堂を開設しました。

このあたりの話やポンペのあとにきたボードウインの話は, 第3回歯科医学歴史散歩でもふれました。

順天堂大学のお話はもちろんその 沿革に詳しいのでそちら に譲って,ここから私立の医師養成所を作る人たちが現れた。 佐倉順天堂で学んだ長谷川泰が

を作り,この済生学舎で学んだ人達から が作られていった。

この佐倉順天堂記念館の向こうに白い建物が見えます。記念館を出て 道路側にまわってみると,佐藤の子孫が今でもここで医院を開いて いるようです。

少し歩いて,旧堀田邸に来ました。

最後の佐倉藩主・堀田正倫(まさとも)は,この地で農業と教育の発展に 尽くそうと考え,堀田家農事試験場を作りました。それがこの場所です。

屋敷から見る景色は,松戸にある 戸定邸に似ている ようでした。

現在でも,時代劇の撮影でも使われるそうです。

また少し歩いて,ひよどり坂を登りました。生憎の雨で地面が悪いですが, 何とか登りきると,武家屋敷通りとなります。 三軒ほど武家屋敷があり,拝観することができます。

佐倉駅前まで戻り,蕎麦屋でビールと昼食をいただき, お開きとなりました。

今回は学生3名,教職員10名の参加でした。


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