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10:00上野駅公園口に集合。曇天で空気が冷たい。 まず歩いて旧吉田屋酒店に来ました。明治時代の酒屋の建物を移築した ものだそうです。ここは,不忍池にある 下町風俗資料館の付設展示場となっているそうです。 |
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少し歩いて谷中墓地に来ました。 まず訪れたのは,浅田飴を作った浅田宗伯の墓です。 もともと漢方医で『良薬だが口に甘い』という触れ込みで売ったのだそうです。 宗伯の書生をやっていた堀内伊三郎が処方をもらい受け,現在の浅田飴と なったそうです。 浅田飴歴史資料館に詳しい解説があります。 |
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宗伯の墓が先なのか,欅の木が先なのか判別できませんが, 欅のおかげで墓石が傾いています。 |
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五重塔跡に歩きました。現在は台座しか残っていませんが,ここには 当時の東京で一番高い五重塔がありました。震災や戦災にも残ったのに, 1957(昭和32)年に放火により焼失したそうです。 幸田露伴『五重塔』のモデルとしても知られているようで, 後ほど露伴の家があったところを通りますが,露伴の家から この五重塔はよく見えたのだそうです。
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佐藤泰然の養子である佐藤尚中(たかなか)のお墓です。 佐藤泰然・佐藤尚中については, 第6回歯科医学歴史散歩, 第4回歯科医学歴史散歩 で散歩しました。 墓石の後ろの銀杏に葉があるころは,見事な様子を見せてくれる ことと思います。 |
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まだ谷中霊園内にいる。霊園からは,日暮里駅前のマンションや スカイツリーもこの通り墓石越しに見える。鶯谷駅をはさんで, 人間の生と死の営みが行われる場所である,とどこかで読んだ気がする。 台東区谷中7丁目に,幸田露伴の旧居跡にこの看板がある。現在は民家が 建っているが,今も五重塔が現存していれば,ここから塔がのぞめたことと 思います。 |
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谷中霊園のはずれ日暮里駅に近いところに佐藤泰然のお墓がありました。 区画としては大きいですが,わきに松本銈という墓もあります。 調べてみると,泰然の実子・松本良順の子,つまり泰然の孫だそうだ。 この人は化学者となり,ボードウィン帰国の際にオランダへ留学もしたのだそうだ。 |
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谷中ぎんざを下り,千代田線・千駄木駅まで歩く。 ここが団子坂下となります。 この坂を登ったところが団子坂上。ここに 森鷗外記念館 があります。 |
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もともと鷗外の住居跡地であり,屋敷2階から品川の海が見えたのだそうだ。 そこで『観潮楼』と名付けていたらしい。 |
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もちろん現在は海などはのぞめるはずもなく,道をはさんだ前には 中学校がある。東京には富士見とか潮見という地名があるが,実際に 見えるところがどれだけあるだろうか。 鷗外といえば,『ヰタ・セクスアリス』などは有名である。 手元にないので確かではないが,医学生になった主人公が解剖学の勉強を する話がでてくる。友人が骨や神経の名前を覚えるのに四苦八苦しているのに, 主人公は家に帰るとギリシャ語とラテン語の辞書で語源を調べて復習を おえる話があったと思う。現在の解剖学ではあまりラテン名やギリシャ名を 教えないそうだが,確かに一理ある勉強法だと思えます。 |
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これも手元にないので不確かな記憶でしかないですが,松本清張の生前の 作品として,一番最初と最後が森鷗外に関するものだったという記事を 読んだことがある。最初は『或る「小倉日記」伝』,最後が『両像・森鷗外』。 『両像・森鷗外』には,同時代の夏目漱石との比較も書いてあったように 記憶するが,刻苦勉励の人・松本清張にとって,鷗外はどのように 見えていたのだろうか。 右は,銀杏の木と,当時からあった大きな石です。 いよいよ話題からはずれていくが,大学生のころ,三鷹の禅林寺に桜桃忌 を訪ねたことがある。桜桃忌は太宰治の命日に行われている。 記憶が正しければ,太宰のお墓の斜め向かいに森鷗外のお墓があったように思う。 墓石には,本名である森林太郎とあったように思う。 |
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団子坂上をもう少し西に進むと,某先生の住むマンション前に出る。 ここは青踏社発祥の地として看板がありました。 今でこそ女性作家などは珍しくないですが,明治40年ころには 相当珍しかったのでしょう。 |
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さらに西に歩いて,白山上。ここから坂を下るが,坂の途中に 白山神社がある。都営三田線の駅名の由来だ。 驚いたことに,この神社の御神徳として歯痛を鎮める効能が あるのだそうだ。歯科医院が繁盛するよう願う絵馬もありました。 また,孫文の来歴のレリーフもありました。 |
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坂を下りきって,白山下。ここからまた坂を登り,降りる。 |
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降りる坂が,御殿坂。この角に, 小石川植物園 入口があります。 もともと徳川幕府が1684年に薬草園として設けた場所だそうです。 下は本館です。 ニュートンのリンゴの木,メンデルのブドウの木が並んでいます。 冬枯れの季節ゆえ,葉を落とした枝のみの状態です。 |
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徳川幕府は,1722年この地に小石川養生所を創設。 そこで使われた井戸跡。関東大震災の時には避難者のために大いに役立った ことが説明版にあります。 1735年には,青木昆陽が甘藷の試作もこの地だったそうです。 |
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旧東京医学校本館です。 |
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茗荷谷駅前に14:00に着きました。上野駅を出てからちょうど4時間でした。 上野から東西方向はアップダウンが多くて,よく歩きました。 駅前の日本海というお店で,お酒と昼食をいただき解散となりました。 今回は研修医1名,教職員5名の参加でした。 |