第12回 歯科医学歴史散歩
~駒込から春日へ~
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10:00JR駒込駅集合

東洋文庫日本医師会 の前を通り, 文京グリーンコート へ来ました.以下の文章は,石橋先生作成の資料をもとにしています。

旧理化学研究所時代に由来する科研製薬本社のあった土地に建設され, 1998年に竣工.センターオフィス棟には,現在も科研製薬の本社がある.

理化学研究所は1917年の創設された 物理学・化学・工学・生物学・医科学 など基礎研究から応用研究まで行う,日本国内では唯一の自然科学系総合 研究所.

鈴木梅太郎,寺田寅彦,中谷宇吉郎,長岡半太郎,嵯峨根遼吉, 池田菊苗,本田光太郎,湯川秀樹,朝永振一郎,仁科芳雄,菊池正士など 多くの科学者を輩出。

仁科記念財団

原子物理学者・仁科芳雄を記念する事業を行うために1955年につくられた団体。 毎年,原子物理学ならびにその応用分野の卓抜した研究に仁科記念賞を贈り, 研究奨励金によってこの分野の研究を援助しているほか,海外の学者の招聘と 国内研究者の海外派遣事業を行っている。

仁科芳雄は,日本の物理学者。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし, 宇宙線,加速器などの研究で業績をあげた。湯川や朝永の師匠でもある。

第二次世界大戦中,軍の要請で仁科を中心に原爆を作ろうとした。 仁科の頭文字を取って『二号研究』と呼ばれた。戦後,アメリカは 日本に原子力に関する研究すら認めなかった。理研にあった加速器も没収され, 東京湾に沈められたのである。

日本アイソトープ協会

放射性同位元素(ラジオアイソトープ)の利用に関する技術の向上および 普及を図ることを目的に,1951年に発足した団体。元々理化学研究所の 仁科研究室が行っていた業務を移管。所在地は旧理化学研究所23号館。

1955年アイゼンハワー米大統領がAtoms for peaceという演説を行い,原子力の 平和利用を促進する目的で原子力技術を公開した。それから日本の原子力発電 の開発がすすめられたのである。

放射性同位元素を用いた研究は,その前に許され,日本では仁科のもとに輸入 されたのが始まりである。その後は,アイソトープ協会が放射性同位元素の輸入販売 や放射性廃棄物の回収を行っている。 松戸歯学部にも アイソトープ研究センターがあったころは,大変お世話になりました。

駒込富士神社

建立年不明。旧本郷村にあったが,1629年加賀藩上屋敷を賜るにあたり浅間社が この地に移転。社伝によれば,1356~61年には既に現在の社地は富士塚と呼び, 大きな塚があった。この塚は一説によると前方後円墳。

諏訪山吉祥寺

室町時代の1458年に太田道灌の開基で江戸城内に創建。道灌は,江戸城築城に際し 和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得,これを祥瑞として西の丸に 建立。山号はこの地が諏訪神社の社地であったため。

のち徳川家康の関東入府にともない駿河台(現在の都立工芸高校周辺)に, さらに明暦の大火と江戸大火によって現在地に移転。

武蔵野市の吉祥寺の由来は,明暦の大火によって,諏訪山吉祥寺の門前町が焼失 した際,江戸幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することに したため,吉祥寺門前の住人をはじめとする居住地・農地を大幅に失った者達 に対し,現在の武蔵野市東部を開墾して住人たちを移住させたことによる。

八百屋お七・吉三郎の比翼塚,二宮尊徳の墓,その他著名人・大名家の 墓多数。

高林寺

慶長元年に神田に創建され,同9年にお茶の水に,また明暦の大火後に 現在地に移転。 神田にあった際に一夜境内に突然清泉が噴出,将軍にお茶用の水として提供 したことによりお茶の水という地名がおこったという。

墓地内に,幕末期の蘭学者・緒方洪庵の墓や明治・大正期の歌人・岡麓の墓がある。

緒方洪庵:江戸時代後期の医学者,蘭学者。1810年7月14日生まれ。大阪に出て 中天游に,1830年江戸で坪井信道に入門。長崎に遊学の後,大阪に 適々斎塾(適塾) をひらく。門人は3000人ともいわれ,大村益次郎,福沢諭吉らがいる。 これが大阪大学医学部の発祥といわれている。

1862年幕府に招かれ,奥医師と西洋医学所頭取をかねた。この医学所が東京大学 医学部の発祥としている。

1863年6月10日死去。54歳。


白山上

白山下 ・・・奥に後楽園の観覧車が見える。

蓮華寺

1587年開基。武家の檀家多く武士寺と呼ばれた。

三代将軍家光が鷹狩りで本寺を訪れたときに歯痛で泣きじゃくる少女に境内の井戸 から湧き出た水をお稲荷様に捧げ少女の口に含ませたところ歯痛が癒えたとの 言い伝えがある。 本堂の脇に小宇歯痛守護熊王大善神・当山守護本松大善神を合祀。

源覚寺(こんにゃく閻魔)

1624年創建。徳川秀忠・家光から信仰を得ていた。

こんにゃく閻魔:閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴。 宝暦年間(1751~1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々 祈願していたところ,満願の夜,老婆の夢に閻魔大王が現れ,「我,日月にも 等しい両眼のうち一つをえぐり取って汝に授べし」と告げたという。 その後,老婆の眼はたちまちに治り,以来この老婆は感謝のしるしとして 自身の好物である「こんにゃく」を断って,ずっと閻魔大王に供え続けたという。 以来この閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から 信仰を集めている。


今回は教職員8名の参加でした。

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